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    スティグマとアイデンティティ
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      JUGEMテーマ:介護


       先日、青葉の森公園陸上競技場で開催された「千葉市ゆうあいピック」に、ボランティアとして参加した。出場選手は、知的障がい者から身体障がい者まで、障がいの種類も程度も異なる老若男女200人前後。100m走、800m走、1500m走、リレーなど、馴染みのある競技から、フライングディスクと呼ばれるフリスビーを使用した独特な競技まで見ることができ、興味深く楽しい時間を過ごすことができた。


       最も印象に残っているのは、競技ではなく開会式で、「地べたに座る選手(障がい者)」に正対して「椅子に座る来賓(健常者)」という場面だった。議員や学者である来賓が座る椅子の背には、各々肩書と名前の記された紙が貼ってあったが、そんな御エライ健常者である彼らは、「障がいの種類も程度も異なる老若男女」を一括りに「障がい者」と呼ぶ。更に言えば、「誰が障害者なのか!?」と、障がい者と健常者の線引きをするのも彼らだ。まぁ、一般的な形式の開会式だったから、主宰者や来賓の言動に他意などあるはずがないことは分かってはいるが、図らずも開会式で展開された景色が、過去から現在まで続く「障がい者と健常者の社会的立場の差異」というものを如実に表しているようで、印象的だったのだ。


       その一方で、「障がい者」というアイデンティティのもとに、これだけ多様な人たちが一堂に会せるということは、「対抗的ヘゲモニーを組織化する上で“強み”になっているのでは?」とも考えた。もっともこれは、“スティグマ化されたアイデンティティ”という問題含みではあるのだが。でも、いまひとつ盛り上がりに欠けるイメージが強い、「(認知症)高齢者」の当事者運動と比べると、「障がい者」のそれの方が遥かに活発なイメージを受けるのは、「歴史の差」もあるのだろうが、高齢者の場合、階級化(生活保護による特養利用者から入居金1億円クラスの超高級有料老人ホーム利用者まで)により分断されているため、「(認知症)高齢者というアイデンティティだけではひとつにまとまれない」という事情もあるように思うのだ。


       「障がい者」というスティグマ化されたアイデンティティから抜け出すことも重要だが、同時に、健常者のイデオロギーを体現する正常の定義に抗い、「障がい者/健常者」といった2項対立を脱構築するために連帯することも重要だろう。で、「その可能性、十分あるじゃん!」と、「ゆうあいピック」で感じることができた。

       


       おまけ。

       

      ヤツらの「スティグマ化したアイデンティティ付与の戦略」は、付与された側の個々の多様性を覆い隠すことを目論み、負のイメージで単純化した十把一絡げの集団と見なすことで、彼らを他者化、無力化する。これって結局、「ヤツらは自身の正常性、正当性を、(不確か故に)確信し安心し既得権益を守りたいのだ」と言えまいか?そしてこのことは、「健常者と障がい者」に限らず「在特会のヘイトスピーチ」から「大人による最近の若者は言説」に至るまで、幅広く見られる。そろそろ飽きてきた「橋下の従軍慰安婦発言問題」も、本質的にはこの問題を孕んでいるように思うのだ。

       

      | - | 23:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
      拘束と合意
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        JUGEMテーマ:介護

         介護福祉士の養成校で習う被介護者の「ニーズ」には、顕在ニーズと潜在ニーズの2つがある。前者は「当事者によって自覚された(若しくは表明された)ニーズ」で、後者は「介護者によって発見される、当事者が無自覚な(若しくは表明されていない)ニーズ」だ。先生からは、「顕在ニーズはモンキーでも分かるが、潜在ニーズの発見には介護士としての高度な専門性が問われるため、お前たちモンキーもより一層勉学に励み、潜在ニーズを発見できるような立派な介護士になるように!」と日々言われる。だから学生たちも、「潜在ニーズがより重要だ」「潜在ニーズこそが真のニーズだ」と認識し、それに対する疑問や批判を耳にしたことはない。

         けど、モンキーな上にキンキーな俺は、「当事者が無自覚なのに、介護者が発見したとされる�二―ズ�のその妥当性を、一体誰がどのように担保するの?」って思ってしまうのだ。そもそも「自分が無自覚だったり、表明することを憚っていたものを、他人に掘り起こされたいのだろうか?(俺なら嫌だな!)」とも思う。

         「高い倫理観と優れた技術・知識を持った介護者」が、「認知症高齢者(及び障がい者)」の代わりに「彼らの本当の二ーズ」を発見し、「インフォームドコンセント(説明と合意)」のもと、それを充足するケアを実践することで、「彼ららしい生活・幸せな生活」を送ってもらえるようにする。

         確かに、一瞬、批判の余地がないように思えてしまうが、これが「隔離された場所=施設」で、「介護職員−利用者」という固定された優位−劣位の関係性(上野千鶴子)の中で行われると考えればどうだろうか?単なるパターナリズム以上の不気味さを感じ、「爐茲蟾妙な疝用者管理手法になってしまっているのでは!?」と訝しく思ってしまうのは、俺がモンキーでキンキーだからなのか?

         一昔前の高齢者施設で普通に行われていた「身体拘束」が、問答無用の露骨な暴力による利用者管理手法であるとするならば、その反省から生じた現在主流の「説明と合意」にもとづくケアを、「爐茲蟾妙な疝用者管理手法」と見なすことも可能ではないのか?勿論「インフォームドコンセントは間違っている!」と言いたいわけではない。ただ、あまりにも無批判に「潜在ニーズの発見」が称揚されていることに対して首をかしげたくなるのだ。当事者が説明の上に合意したとしても、必ずしもそのことが、介護者の発見したニーズの妥当性を担保することにはならない。少なくとも批判的に点検する必要はあるはずだ。

         拘束と合意は限定のもたらす体験的形態(前者は悲しみの感情、後者は喜びの感情)にほかならない。拘束されるということは、何かをするように限定されたが、それを悲しく感じるということである。そして合意する――オブセクイウムに従って追随するという意味での合意――ということは隷属を生きるということであるが、ただし、よろこびの感情によって内在的な重荷を軽減された仕方でそうするということである。 
        (フレデリック・ロルドン「なぜ私たちは、喜んで“資本主義の奴隷”になるのか?」より)

        | - | 19:40 | comments(2) | trackbacks(0) |
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